庭子の部屋

☆青少年に心豊かに育ってほしいと願いながら、私自身がLearning to be を学んでいます。☆常葉学園大学内売店「Yショップ」の店主です。おもてなしの心を伝えたいと思っています。



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カナダメソジスト教会宣教師 エンバーソン小伝
カナダメソジスト教会宣教師                            ロバート・エンバーソン(R,Emberson:1867~1910)小伝

文 石田徳行
○ 生い立ち
 ロバート,エンバーソンは、1867年(慶応3)3月22日(参考文献2)、イギリス領カナダ、オンタリオ州トロント市近郊の農家の次男として生まれた。敬虔なクリスチャンである両親の影響を受けて勉学に熱中、アルバートカレッジ在学中、牧師として必要な外国での伝道・奉仕活動を体験するなど、着々と伝道者としての道を進み、1899年(明治32)にはビクトリア大学神学部で学位を取得し、聖職者に任命された。
 折から1899年は、領事裁判権の撤廃、関税率の引き上げ、相互対等の最恵国待遇等を内容とする日英通商航海条約実施の年に当たり、久しく途絶えていたカナダメソジスト教会の日本への伝道師派遣の機運が高まるなかで、エンバーソンに日本伝道の命がくだることになった。

○ カナダメソジスト教会と静岡
 静岡学問所廃止後まもなく、1874年(明治7)4月、カナダメソジスト教会の宣教師マクドナルド(1836~1905)が来静し、旧幕臣人見寧(ひとみ やすし)の賤機舎(しずはたしゃ)で語学、化学、歴史等を教えるかたわらキリスト教の説明を行い、精力的に伝道に努めた。メソジスト派は、18世紀のイギリスに生まれた厳しい戒律を重んじるプロテスタントの一派で、マクドナルドとともに来日したカクラン(1834~1901)が東京で伝道活動を行ったので、カナダメソジスト教会は、東京と静岡を拠点として日本における伝道活動を開始することになった。こうして、カナダメソジスト教会と静岡の関わりが生まれることになった。

○ 来静(1901,10,1)
 1901年(明治34)10月1日、エンバーソンは新婚の妻ヘスター・ハリス(Hester Harris)を伴って静岡に着任、最初は東草深二丁目に居を構え、青年たちを集めて聖書の講義を始めるなど、静岡伝道の第一歩を踏み出した。
 当時、イギリスはロシアの極東進出を警戒し、「光栄ある孤立」政策を転換して日本に接近、ここに1902年(明治35)1月,日英同盟が締結された。3月1日、静岡浅間神社で日英同盟締結祝賀会が開かれ、集まった官民無慮一千余名をまえに、エンバーソンは同盟国人を代表して一場の演説を試みている。その様子は「颯爽たる英風、音吐明暢、優容人に迫らざるところ」(参考文献1)と評されているが、英国紳士としての自信と誇りの程がうかがえる。
 こうした内外の状況のもとで、エンバーソンは、伝道活動のほかに、中学校教師、法務官、県市吏員、市民らを対象とする静岡英語夜学校を市内に開設したり、静岡中学校や静岡商業学校で英語の授業を行い、その報酬を全て静岡英語夜学校経営の経費に充てるなど、静岡の英学の発展にも寄与している。
 また1903年(明治36)、アメリカ合衆国セントルイスで博覧会が開催された際、静岡県は英文の静岡県案内記の起草をエンバーソンに依頼した。エンバーソンは、当時の静岡中学校長川田正徴と協力してこれを完成し、静岡県の海外紹介にも寄与した。

○ 宣教師館(エンバーソン邸)の完成(1904,4,1)
 カナダメソジスト教会は、静岡伝道の拠点として、1904年(明治37)4月1日、西草深に宣教師館(エンバーソン邸)を建設し、翌1905年(明治38)10月には宣教師館構内に学生寄宿舎を設けて「キリスト教学生会」と称し、学生にキリスト教の指導をするなど、幅広い活動を展開した。
 これより先、1904年(明治37)2月10日、日露戦争が勃発した。エンバーソンは、静岡歩兵第三十四連隊の将校・軍医団に英語を教え、時に聖書の講義も行っていた関係で、出征の際には切々たる至情をもって、小形の聖書500冊はじめ多くの書物を彼らに贈り、家族の慰問にもつとめている。

○ 軍人遺家族幼児保管所の開設と静岡ホーム
 戦死者の増加に伴って、静岡にも多くの軍人遺家族がうまれた。こうした人たちのために、エンバーソンは県市当局と交渉を重ねながら、1905年(明治38)8月、「軍人遺家族幼児保管所」を市内に開設し、孤児の保育と遺族の授産のために教会信徒を集めて奉仕させている。この施設は、戦争終結とともにその任務を終えて1906年(明治39)5月閉鎖され、翌1907年(明治40)4月には、カナダ、ミッションの資によって一般孤児をも収容する施設「静岡ホーム」が開設され、エンバーソンは自ら総理としてその運営に関わっている。

○ 晩年〜帰国そして召命〜
 1907年(明治40)9月、静岡滞在7ケ年の任期を終えて帰国、翌1908年(明治41)9月9日、日本駐在宣教師団総理として再び来日、その間、静岡滞在は僅か一ヶ月であったが、各方面から大歓迎を受けた。しかし同年11月には体調を崩して東京聖路加病院に入院、1910年(明治43)1月9日、日本そして静岡に限りない愛着の思いを残しながら帰国の途につき、帰国後まもない同年2月18日、44才の若さで天に召された。
 静岡教会では、3月16日追悼会が行われ、各方面の代表者が追悼のことばを述べ、感謝の誠を捧げた。

○ 宗教家、教育者としてのエンバーソン
 静岡時代のエンバーソンは、日英同盟の締結、日露開戦というフォローの風を背にしながら、宗教家として、教育者として、そしてなによりも誇り高い英国人としてその職務を完遂した。
 エンバーソンは、日本におけるメソジスト教会の創立者としてのカクラン、マクドナルド両名とともに「メソジストの三大人」(参考文献1)ともいわれている。1878年(明治11)マクドナルドが帰国して以来、やや停滞気味の静岡におけるメソジスト教会の活動を名実ともに盛り上げた宣教師として、そして静岡をこよなく愛した外国人宣教師として、私たちは、エンバーソンの名を永く後世に語り継ぎたいものである。

<参考文献>
1「日本メソヂスト静岡教会六拾年史」(日本メソヂスト静岡教会発行、1934,9,27)
2飯田宏「明治時代の静岡市の英学」(「静岡女子短期大学紀要」第3号、1956)
3松縄善三郎「静岡を愛した外国人R,エンバーソン」(「しずおかの文化」68号2002,2,25発行)4「エンバーソン邸のあらまし」(静岡市教育委員会発行)

         

| 庭子の部屋 | 後世に伝えたい歴史的建造物 | 10:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
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